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マレー半島紀行(序)

 2011年8月。1週間の夏休みを取って、1年半ぶりに日本を旅立った。
行き先は、マレーシアとシンガポール。正直に言うと、東南アジアの国々の中で、この2カ国にはそれほど魅力を感じていなかった。これまでにタイ、ベトナム、カンボジアに足を踏み入れ、次に訪れるのはラオスか、ミャンマーだと思っていた。
 東南アジアは、良い意味で清潔でなく、整備されておらず、路上で息を吸い込むと文明の香りより人間や食べ物の生々しい臭いが感じられるような国が良い。マレー半島には、その臭いがやや薄いような気がしていた。クアラルンプールとシンガポールは、高層ビルがそびえ立つアジアでも有数の大都会だ。東西交易の中継地として栄えたマラッカやペナンといった歴史ある港町も控えるが、どこかこざっぱりとしていて、バンコクやホーチミンのように、民衆がその暮らしのナマの姿を旅行者にさらけ出してくれるような街ではないだろう。せっかくお金を払い、蒸し暑さを覚悟してアジアに出かけるからには、その場所にぜひ立ってみたいという確かな動機が必要だ。僕にとってそれば、心のひだの奥まで染み込んでくるような「臭い」だ。人間が、食べ物が、動物が、そしてその街全体が醸し出す生きた臭いだ。
 しかし、サラリーマンの身分で旅にかけられるお金は、いつもそう多くはない。臭いを感じられる国々へ渡る航空券の価格は、僕の希望に見合うものではなかった。旅立ちの日が迫り、僕は「臭い」に代わる動機を見つけ出さねばならなかった。
 それは、思いのほか簡単に見つかった。マレー鉄道だ。学生時代にその存在を知って以来、いつかはバンコクからシンガポールまでのんびり車窓を眺めながら旅したいと思い続けてきた。
 ただ、ここでも妥協が必要だった。初めは、当然のごとくバンコク発シンガポール行きの旅程を考えたが、あれこれ調べるうちに1週間という時間では十分に楽しむことができないと分かった。そこで、マレー鉄道全線乗車の夢は棚上げし、マレー半島の南部を鉄道とバスを使って巡ることにした。
 成田からシンガポールへ飛び、バスで国境を越え、戦前に詩人金子光晴が滞在したバトゥ・パハへ向かう。そこからバスでマラッカを経由し、クアラルンプールへ。最後はマレー鉄道で一転南下し、シンガポールから帰国する。
 バトゥ・パハについては、いつも世話になっている某有名旅行ガイドで初めて知った。金子光晴とこの町の関係についても、このとき初めて知った。余談だが、僕は旅に出るとき、司馬遼太郎の「街道をゆく」にその土地の章があれば、文庫本を携えて出かけることにしている。知識もなくふらっと訪れ、その土地を自分の肌で一から探っていく旅も素敵だが、ある作家の視点を借りて眺め、そこから自分の感覚を肉付けしていく手法も悪くない。時間が限られるサラリーマンの旅では、なおさらそのような知識が必要になる。
 バトゥ・パハの場合、金子光晴が「マレー蘭印紀行」を残しておいてくれた。アマゾンで古本を手に入れ、出発前に読んだ。遠慮のない詩人の目を借りて、まだ見ぬ熱帯の街への想いが確かに膨らんだ。


 前置きが長くなった。そろそろ、旅立とう。
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青春18きっぷで行く北陸・山陰・山陽の旅(第5日)

旅行5日目。今日がいよいよ最終日。

西明石から新快速で大阪へ。関西地区の新快速は、とてつもなく速い。青春18きっぷ使いには、このうえなく有り難い列車である。

日付が変わるまでに長野へ帰るには、午後の早い時間に大阪を発つ必要がある。時間は限られている。急がねば。

大阪環状線に乗り換え、大阪城公園下車。目指すは、もちろん大阪城。

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お堀の水面を、何やら赤い物質がびっしりと埋めていた。陸上トラックの舗装のような、毒々しい色だ。

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秀吉の築いた天下の巨城も、戦災で焼け落ちて現存するのはコンクリートの復元天守閣。ただ、城の歴史を解説した展示は見ごたえがあり、ついつい長居してしまった。

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豊臣秀頼とその母、淀君が最期を迎えたとされる場所。司馬遼太郎の「城塞」を読み、この親子とともに滅んだ豊臣氏に愛着を感じた。ちょうど、壇ノ浦で滅んだ平氏に対して持つのと同じような感情だ。始祖の死後、栄華を継承するための才覚を持った後継者が現れず、やがて対抗勢力に生皮を剥されるようにして滅ぼされていく。滅び行く過程は、合理的な見方をすれば愚かな行為の帰結にほかならないが、文学的な視点で見れば、そこには時代の理不尽さに翻弄される人々があがき、悲しみ、そして諦める姿がある。そんな滅びの物語が、僕は好きである。

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旅の最後に、滅び行く豊臣に自らの人生を輝かせる場所を求めた真田幸村の足跡を訪ねたかった。大阪冬の陣で幸村が徳川方を翻弄した「真田丸」の跡地。今ではスポーツ公園のように整備されていて、面影は微塵もない。ただ、街の喧騒から少し外れた静けさの中に身を置いていると、甲冑を擦る音を響かせ、武者たちが出撃していく様子が、おぼろげながら見えてくる気がした。なかなか情景が浮かんでこなかった壇ノ浦との違いは何か。それは、あるいは単に時の流れの長短にあるのかも知れない。

青春18きっぷで行く北陸・山陰・山陽の旅(第4日)

旅行4日目。

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通勤・通学客に交じり、雨の防府駅から広島方面行きに乗る。

この日最初の目的地は、

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広島を通るなら、やはり訪れないといけないと思った。高校の修学旅行で訪れて以来の、原爆ドーム。むき出しになった鉄骨や崩れ落ちたレンガが一体となり、言い訳を一切許さない厳粛さをもって、こちらをじっと見つめている気がする。

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再び列車に乗り、福山へ向かう。

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目的地は、鞆の浦。かつて、瀬戸内を行きかう帆船が風待ちをして栄えた港だ。
幕末、海援隊が操るいろは丸が紀州藩の船と衝突・沈没したことでも有名。この日は天候が悪く、いろは丸を模した遊覧船が高波にもまれながら狭い水道を進んでいた。

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瀬戸内海を見下ろす高台に立つ福禅寺の客殿「対潮楼」から弁天島を望む。ここは江戸時代、朝鮮通信使の宿所となり、景観を気に入った通信使から「日東第一景勝」と賞賛されたという。また、いろは丸事件で海援隊と紀州藩の交渉の場にもなった。
畳の上に座り、しばらく窓外の景色を眺めていると、海からの風の涼しさも手伝って、旅の疲れが癒えていくのを感じた。終わりが定まり、先を急ぐのが当たり前の現代の旅。風待ちをしながら自然の摂理に合わせて進むかつての旅の優雅な気分に、ほんのちょっとでも浸れたひとときは、貴重な体験だった。

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鞆の街を歩く。小さな路地と坂道が入り組んでいる。

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いろは丸事件の折に龍馬が滞在した宿も残っている。

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山腹の寺院まで上り、鞆の全景を眺める。海を抱え込む岬の曲線が美しい。時間が許せば、いつまでも眺めていたかった。

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街の一角に、こんな看板を見つけた。全国的に話題になった公共事業に対する住民の意見表明だ。この土地と何の利害関係もない一人の勝手な観光客として言わせてもらえば、鞆の港の上に橋をかける発想そのものが信じられない。ただ、文化財や景観保護の名の下に、不便な暮らしを強いられる住民の心情も理解できないことはない。こうした問題は、人々が利便性の追求に価値を見出す時代が続く限り、収まることはないだろう。

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長州で司馬遼太郎の記述が事実だったことを確かめた僕が、この旅でもう一つ心に秘めていた目的が、この鞆の浦にあった。「崖の上のポニョ」を構想中の宮崎駿監督が滞在した家を探すこと。港から見上げた岬の突端にそれらしき屋根を見つけ、方角だけを頼りに階段を上った。
間近で見ると、玄関先のたたずまいが、以前NHKで放送された宮崎監督への密着ドキュメントに登場した家屋とそっくり。ここに間違いないと判断して、二つ目の目的は達成された。

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家屋の向こう側は、遮るもののないオーシャンビュー。生みの苦しみを伴っていたとはいえ、何とも贅沢な逗留だ。

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広島から昼食も取らずに駆け抜け、さすがに腹が減ったので、福山駅前で牛丼にありつく。この日は、西明石に宿泊。明日はいよいよ最終日だ。

青春18きっぷで行く北陸・山陰・山陽の旅(第3日)

旅行3日目。

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早朝、益田駅から気動車に乗り、目指すは長州藩の城下町・萩。

1時間ちょっとで到着。駅前のレンタサイクル店で自転車を借りる。
この自転車、名前がなんと「龍馬号」。店の人曰く、大河ドラマにちなんで仕入れたわけではなく、以前からあったそうだ。長州とかかわりの深い龍馬の名を冠した自転車で萩を回る。ささいなことだけれども、胸の高鳴りを覚えずにはいられない。

まず、萩市街を東へ走り、吉田松陰ゆかりの松陰神社へ。
ここには、松陰が開いた松下村塾の建物が残されている。
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こじんまりとした建物は、松陰が塾生とともに汗を流して建て、その後塾生が増えるのに合わせて増築されていったとされる。座敷の壁に飾られた塾生の写真を見ると、この小さな塾がいかに幕末から維新に向かう時代の重要な人物を輩出していたのかが分かる。

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看板の掛けられた正面から回り込んだ一角には、松陰がペリーの黒船に密航を企てた罪で幽閉生活を送った部屋がある。この三畳ほどの小さな空間で、若き革命思想家は何を思い日々を過ごしたのだろうか。

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松下村塾からさらに東側へ10分ほど走った山腹に、吉田家の墓所がある。

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この旅で、僕はぜひ確かめたいことがあった。司馬遼太郎の著作「街道をゆく」に、長州では現代でも、吉田松陰のことを「松陰先生」と呼ぶとの記述がある。果たして、それは本当なのか。
松陰像の下で草花を取っていた子連れの女性に、思い切って尋ねてみた。女性は僕の突然の問いかけに戸惑うことなく、明快に答えてくれた。「そうですね、この辺の人は先生と呼びますよ」
司馬遼太郎の記述は本当だった。いや、その事実を確認した喜び以上に、萩の人たちがごく自然に吉田松陰への敬意と愛着を日々の暮らしの中で表現していることが尊く感じられ、うれしかった。この答えを聞いただけでも、萩へ来た甲斐があったと思った。

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吉田家の墓所近くから、萩の市街地を眺める。萩は三方を山に囲まれ、残る一方は海に面する。守るには易い土地だが、交通の便が悪く、長州藩はたびたび現在の県庁所在地である山口への「遷都」を望んだという。幕末の主役を演じる長州藩士の活躍の舞台は、国政の中心である江戸、京都、あるいは海外への玄関口である長崎や下関だった。ただ、そうした猛者たちが幼少時代を過ごし、人間を形作っていった土地が、世間の血なまぐささとは無縁に思える風光明媚な萩であったというのは面白い。

山を下り、松陰神社を過ぎて、かつての萩城下へと向かう。

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吉田松陰や高杉晋作、桂小五郎ら武士の子弟が学んだ藩校「明倫館」跡。現在は萩市立明倫小学校が建つ。

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高杉晋作の生家。

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晋作の生家からほど近い場所に、吉田松陰がたびたび投獄された「野山獄」跡がある。獄の前に止めてあるのは、萩の旅でお世話になった「龍馬号」。

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2時間半ほどの滞在で、再び東萩駅前へ。短かったけれど、濃密な時間だった。ちなみに、市内を循環するバスの名は「松陰先生」「晋作くん」というらしい。

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山陰本線に乗り、日本海沿いを下関へと向かう。
この列車は途中、景色の良いポイントで何度か停車。列車の本数は決して多くない線区だが、先を急ぐビジネス客があまり乗らないため、このようなサービスができるのだろう。

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午後3時過ぎ、下関到着・駅前のケンタッキーで遅い昼食を食べ、徒歩で赤間神宮へ向かう。
関門海峡を望む高台に、竜宮城のようなおなじみの水天門が見えてきた。
パンフレットで読んだ記憶が確かなら、この門は意外にも戦後に建てられた新しいもの。壇ノ浦合戦で敗色濃厚となった平家方の二位尼が、幼い安徳天皇に「波の下にも都はあります」と言い聞かせてともに入水したという故事にちなんだという。波間に沈む安徳天皇の目に、都は見えていたのだろうか。

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境内にある平家方の武将らの墓。

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安徳天皇の御陵。

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赤間神宮の隣には、日清戦争の講和会議が開かれた「春帆楼」がある。そこへ向かう道には、清国側の全権李鴻章の名が付けられている。

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さらに海沿いを進み、関門大橋の下に至る。橋のたもとから南側の水域が、源平合戦で有名な壇ノ浦という。

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対岸までは、手を伸ばせば届きそうな近さ。この狭い水域に、1000を超える舟が密集して戦った。飛び交う矢、抜刀して叫び声を上げる武士、飛び散る血、逃げ惑う女性たち。海面には、傷つけられ、転がり落ちた武士の遺骸が浮き沈みする。当時の様子を頭の中で再現しようとするが、穏やかな海面を見ているとなかなかイメージが浮かばない。

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壇ノ浦を望む海岸にある「みもすそ川公園」。八艘とびをする源義経と、錨を持ち上げる平知盛の像が建つ。

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さらにその脇には、長州藩が異国船を砲撃した大砲のレプリカがある。この公園には下関戦争当時、実際に長州藩の砲台が置かれていたという。狭い海峡で至近距離から砲弾を浴びせられる船員の恐怖は、どれほどのものだったろう。平安末期と幕末。日本史における激動の時代の舞台として、この海峡は登場した。しかし、今ここにあるのは、公園に置かれた二つのモニュメントと、太古より変わらぬ潮と時の流れだけだ。

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関門海峡は、トンネルを使って徒歩で渡ることできる。しかし、残念なことに、訪れた当時は工事で通行止めだった。

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仕方なく、船で対岸の門司へ渡る。

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門司には明治期以降の洋風建築が数多く残り、戦いの血なまぐさい匂いがうっすらと残る下関に比べると、かなり洗練された印象だ。

門司港駅前の広場で、コンビニで買ったアイスクリームを食べ、束の間の九州滞在を締めくくった。
この日の宿は、再び本州に戻り、山口県防府市に定めた。

青春18きっぷで行く 北陸・山陰・山陽の旅(第2日)

旅行2日目。

頑張って早起きし、午前6時に京都駅へ。今日の目的は、山陰本線をできるだけ西へ移動すること。ほぼ全工程を列車の中で過ごすことになる。これも、青春18きっぷを使ったゆるりとした旅の醍醐味だ。

山陰本線は、京都から幡生(列車の運用上は下関)に至る全長約670キロに及ぶ。その間、当然だが優等列車には乗れない。踏破するには、列車を何度も乗り換える必要がある。

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1本目の列車は、福知山行き普通列車。山陰本線は多くが非電化区間だが、京都から城崎温泉までは電化されている。車両は、東海道本線や山陽本線を疾走する新快速電車と同じだ。
駅前のコンビニで朝食を買い、早めに窓側の席に陣取る。早朝でしかも下り列車なのであまり利用する人はいないのかと思ったが、京都駅を出発する時点で既にほぼ満席の状態。丹波口、二条と京都市内の駅に止まるたびにさらに多くの人が乗り込んできて、立ち乗りの人も出始めた。

天気は快晴。嵐山、保津峡を過ぎて亀岡の盆地へ抜けると、水田の中に集落が点在するのどかな風景が広がった。窓が大きく設計されているため、車窓の風景が視界全体に広がるのが心地よい。早起きして席を確保した甲斐があった。

約2時間かけて福知山に到着。ここから2本目の豊岡行き、3本目の浜坂行きを乗り継ぐ。どちらも気動車で、赤い塗装のシンプルな車両。車輪が線路を渡る音にディーゼルエンジンの機械音が調和して、ローカル線の雰囲気を演出してくれる。架線がなくなってからが、山陰本線の真骨頂だ。
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浜坂行きの列車からは、初めて日本海を望むことができた。
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少し前に新しい橋への架け替えが終わった「餘部鉄橋」を渡る。古い橋が並行してまだ残っている。6年ほど前に一度車で訪れ、下から見上げたことがある。鉄橋のすぐ下に人家があるのに驚き、この場所によく橋を架けたものだと感心した。
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浜坂から、4本目の鳥取行きに乗り換え。車両はやはり、赤で統一されている。

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対向列車との待ち合わせで長時間停車した岩美駅。小さな集落で周りには見るべきものはなさそうだったが、旅人にはその寄るべなさが何とも言えず良い。架線がないと、空の青さがいっそう際立って見える。

鳥取で、5本目の米子行きに乗り換え。「とっとりライナー」という快速列車で、右に日本海、左に大山を望みながら鳥取平野を疾走する。
米子で40分ほど時間があったので、昼食のため初めて駅の外へ出る。駅前を歩き回るが、満足させてくれそうな食堂は見当たらない。仕方なく、ショッピングモールの建物にあったマクドナルドで妥協する。

米子から乗った6本目も、快速列車の「アクアライナー」。
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この列車、何と島根県の浜田まで連れて行ってくれる。乗車時間は約3時間。2両だけの小ぢんまりとした印象だが、やる仕事はデカい。松江や出雲市での乗り換えを覚悟していたので、これには助かった。


松江から出雲市に至る宍道湖沿いは、これまで自分が見てきた日本の風景の中で5指に入る美しさだと感じている。

かつて、餘部鉄橋を訪れたのと同じ旅で松江と出雲大社に足を伸ばした。一畑電車の「松江しんじ湖温泉」駅のそばに湖畔の公園があり、そこからの眺めが特に素晴らしかった。右手には宍道湖の穏やかな湖面が広がり、その向こうに深緑色に沈む山影がある。左手には、湖にかかる橋を前景にして松江市街地のビル群が、こちらもまるではるか昔からそこに存在したかのように泰然とたたずんでいる。自然界と人間の営みの間に湖水が満ち、両者の境目をあいまいにしているようで、そのように呼ばれているのかは知らないが、松江は水の街だ、などと勝手に思い込んだりした。
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浜田に着いた時には、既に暗くなりかけていた。いよいよ、7本目でこの日最後の益田行きに乗り込む。

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1時間足らずの乗車で、益田に着く。闇に包まれた街を歩き、予約した駅近くのホテルにチェックイン。スーパー惣菜とビール、ローカルコンビニでご飯を買い、自室で夕食にする。


翌日はいよいよ、この旅のハイライトだ。

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Author:barung
アジア大好き。いつも格安チケットで行く貧乏旅行。もちろん国内旅行も大好き。これまでの旅の記録をのんびり綴る不定期ブログです

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