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青春18きっぷで行く北陸・山陰・山陽の旅(第3日)

旅行3日目。

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早朝、益田駅から気動車に乗り、目指すは長州藩の城下町・萩。

1時間ちょっとで到着。駅前のレンタサイクル店で自転車を借りる。
この自転車、名前がなんと「龍馬号」。店の人曰く、大河ドラマにちなんで仕入れたわけではなく、以前からあったそうだ。長州とかかわりの深い龍馬の名を冠した自転車で萩を回る。ささいなことだけれども、胸の高鳴りを覚えずにはいられない。

まず、萩市街を東へ走り、吉田松陰ゆかりの松陰神社へ。
ここには、松陰が開いた松下村塾の建物が残されている。
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こじんまりとした建物は、松陰が塾生とともに汗を流して建て、その後塾生が増えるのに合わせて増築されていったとされる。座敷の壁に飾られた塾生の写真を見ると、この小さな塾がいかに幕末から維新に向かう時代の重要な人物を輩出していたのかが分かる。

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看板の掛けられた正面から回り込んだ一角には、松陰がペリーの黒船に密航を企てた罪で幽閉生活を送った部屋がある。この三畳ほどの小さな空間で、若き革命思想家は何を思い日々を過ごしたのだろうか。

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松下村塾からさらに東側へ10分ほど走った山腹に、吉田家の墓所がある。

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この旅で、僕はぜひ確かめたいことがあった。司馬遼太郎の著作「街道をゆく」に、長州では現代でも、吉田松陰のことを「松陰先生」と呼ぶとの記述がある。果たして、それは本当なのか。
松陰像の下で草花を取っていた子連れの女性に、思い切って尋ねてみた。女性は僕の突然の問いかけに戸惑うことなく、明快に答えてくれた。「そうですね、この辺の人は先生と呼びますよ」
司馬遼太郎の記述は本当だった。いや、その事実を確認した喜び以上に、萩の人たちがごく自然に吉田松陰への敬意と愛着を日々の暮らしの中で表現していることが尊く感じられ、うれしかった。この答えを聞いただけでも、萩へ来た甲斐があったと思った。

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吉田家の墓所近くから、萩の市街地を眺める。萩は三方を山に囲まれ、残る一方は海に面する。守るには易い土地だが、交通の便が悪く、長州藩はたびたび現在の県庁所在地である山口への「遷都」を望んだという。幕末の主役を演じる長州藩士の活躍の舞台は、国政の中心である江戸、京都、あるいは海外への玄関口である長崎や下関だった。ただ、そうした猛者たちが幼少時代を過ごし、人間を形作っていった土地が、世間の血なまぐささとは無縁に思える風光明媚な萩であったというのは面白い。

山を下り、松陰神社を過ぎて、かつての萩城下へと向かう。

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吉田松陰や高杉晋作、桂小五郎ら武士の子弟が学んだ藩校「明倫館」跡。現在は萩市立明倫小学校が建つ。

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高杉晋作の生家。

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晋作の生家からほど近い場所に、吉田松陰がたびたび投獄された「野山獄」跡がある。獄の前に止めてあるのは、萩の旅でお世話になった「龍馬号」。

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2時間半ほどの滞在で、再び東萩駅前へ。短かったけれど、濃密な時間だった。ちなみに、市内を循環するバスの名は「松陰先生」「晋作くん」というらしい。

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山陰本線に乗り、日本海沿いを下関へと向かう。
この列車は途中、景色の良いポイントで何度か停車。列車の本数は決して多くない線区だが、先を急ぐビジネス客があまり乗らないため、このようなサービスができるのだろう。

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午後3時過ぎ、下関到着・駅前のケンタッキーで遅い昼食を食べ、徒歩で赤間神宮へ向かう。
関門海峡を望む高台に、竜宮城のようなおなじみの水天門が見えてきた。
パンフレットで読んだ記憶が確かなら、この門は意外にも戦後に建てられた新しいもの。壇ノ浦合戦で敗色濃厚となった平家方の二位尼が、幼い安徳天皇に「波の下にも都はあります」と言い聞かせてともに入水したという故事にちなんだという。波間に沈む安徳天皇の目に、都は見えていたのだろうか。

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境内にある平家方の武将らの墓。

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安徳天皇の御陵。

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赤間神宮の隣には、日清戦争の講和会議が開かれた「春帆楼」がある。そこへ向かう道には、清国側の全権李鴻章の名が付けられている。

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さらに海沿いを進み、関門大橋の下に至る。橋のたもとから南側の水域が、源平合戦で有名な壇ノ浦という。

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対岸までは、手を伸ばせば届きそうな近さ。この狭い水域に、1000を超える舟が密集して戦った。飛び交う矢、抜刀して叫び声を上げる武士、飛び散る血、逃げ惑う女性たち。海面には、傷つけられ、転がり落ちた武士の遺骸が浮き沈みする。当時の様子を頭の中で再現しようとするが、穏やかな海面を見ているとなかなかイメージが浮かばない。

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壇ノ浦を望む海岸にある「みもすそ川公園」。八艘とびをする源義経と、錨を持ち上げる平知盛の像が建つ。

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さらにその脇には、長州藩が異国船を砲撃した大砲のレプリカがある。この公園には下関戦争当時、実際に長州藩の砲台が置かれていたという。狭い海峡で至近距離から砲弾を浴びせられる船員の恐怖は、どれほどのものだったろう。平安末期と幕末。日本史における激動の時代の舞台として、この海峡は登場した。しかし、今ここにあるのは、公園に置かれた二つのモニュメントと、太古より変わらぬ潮と時の流れだけだ。

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関門海峡は、トンネルを使って徒歩で渡ることできる。しかし、残念なことに、訪れた当時は工事で通行止めだった。

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仕方なく、船で対岸の門司へ渡る。

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門司には明治期以降の洋風建築が数多く残り、戦いの血なまぐさい匂いがうっすらと残る下関に比べると、かなり洗練された印象だ。

門司港駅前の広場で、コンビニで買ったアイスクリームを食べ、束の間の九州滞在を締めくくった。
この日の宿は、再び本州に戻り、山口県防府市に定めた。

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アジア大好き。いつも格安チケットで行く貧乏旅行。もちろん国内旅行も大好き。これまでの旅の記録をのんびり綴る不定期ブログです

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